「″生きるちから″を物語にしたい」片耳難聴の主人公を描いた「蝶の羽ばたき、その先へ」作者森埜こみちさんスペシャルインタビュー

2020年7月17日 − Written by きこいろ編集部

「耳が聞こえませんって、なんで言えなかったんだろう」

蝶の羽ばたきその先へ図書

突発性難聴により左耳が聞こえにくくなった中学生、結の姿を描いた「蝶の羽ばたき、その先へ」が2019年秋、出版されました。

第44回日本児童文芸家協会賞を受賞した本作。
子どもから大人まで、聞こえない人、聞こえにくい人、聞こえる人と多くの読者がいます。

作者の森埜こみちさんは、両耳が聞こえる方です。
森埜さんがどうして片耳難聴というテーマを物語に登場させたのか。
今回きこいろでは、執筆の裏側やご自身のことをお聞きし、きこいろ読者へのメッセージを頂きました。

(インタビュアー:高井・麻野

作家 森埜こみちさん(ご自宅にて)

作品を書こうと思ったきっかけ

高井:まず初めにお伺いしたいのが、この作品を書こうと思ったきっかけについてです。
これまで書籍の物語で、片耳難聴を持つ物語が一つの題材として扱われることは多くはありませんでした。
森埜さんはなぜ、このテーマを描いたのでしょうか。

わたしは手話を習っていたのですが、その手話の先生が、「両耳とも聞こえなくなってからは、引き籠りだったのよ」と語られたことがきっかけでした。

とても明るい方で、引き籠っていたというのが、どうしても信じられなくて。作中の今日子先生は、その方がモデルです。

どうやってその状態から抜け出したのですかとお訊ねしたら、「仲間と手話のおかげ」と教えてくださいました。

その方の「生きるちから」を物語にしたいと思い、生まれたのが「蝶の羽ばたき、その先へ」です。

高井:そうだったんですね。では、はじめから片耳難聴という素材があったのではないのですね。

そうではありませんでした。

主人公の聴力レベルをどのくらいに設定するかに迷い、いろいろな方にお話を伺ったのですが、そのなかのおひとりは、小学校の中学年から高学年にかけて聴力がどんどん落ちてゆき、中学は聾学校の中等部に進んだ方でした。

そのときの気持ちをお訊ねしたら、わたしの顔をまっすぐに見て「絶望しかありませんでした」と。
両耳が聞こえない人の物語は、わたしには書けないと思った瞬間です。

もちろん片耳難聴の状態がわかるわけではないし、楽だなどとは思っていません。
ただ、聴力を完全に失った世界の感覚と思春期の絶望感は、わたしには思い描くことができないと。

麻野:あったものを失う、自分の一部を失う…というのは辛いですよね。
片耳難聴の場合も、結のように突然聞こえなくなると「世界が違うな」と生活の体感が変わり、慣れるまで時間がかかったと仰る方もいます。

高井:ご自身は難聴の経験はないとのことですが、丁寧な片耳難聴の描写が印象的でした。
片耳難聴のことはどのようにして知ったのですか。

身近に突発性難聴で片耳が聞こえなくなった方がいて、教えてもらいました。

また、言語聴覚士の筒井優子さんには、聞こえの状態は人によって様々であることを詳しく教えていただきました。

それでも私自身が片耳難聴を実体験として知っているわけではないので、執筆中は想像をふくらませました。

たとえば、オーディオコンポから音楽が流れている状態でテレビをつけると、通常よりTVの音量を上げないと、アナウンサーの声が聞きとれません。
水を流して洗い物をしているときに声をかけられても、何をいわれたのかわかりません。
プールなどで水のなかに潜ると、聞こえの状態が大きく変わります。ぼんやりとしか聞こえないし、音の質も変わります。
耳に水が入ったときも、潜ったときほどではありませんが、変わります。

難聴とはこういう状態なのかな…と想像しながら。

麻野:表現するのに難しさを感じたり、特に苦労した部分などはありますか?

はっきりとは聞こえない、あいまいに聞こえる..という状態をどのように表現したらよいかに迷いました。

原稿の段階では聞こえない箇所を〇〇というように表記していました。
〇に網をかけて、ぼんやりとしたグレイの丸にしてくれたのはデザイナーさんです。

聞こえない方にとってはそれでも違和感があると思います。
ただ、○○よりは近づいたのではないかなと、デザイナーさんに感謝しています。

麻野:片耳難聴は、静かなところでは聞こえる。
でも、賑やかな所や聞こえない側から話されると、なんと言っているかが分からない…という体験をする方が多いです。
難聴側からだと気配も察知できないので反応できない、みたいなときもあります。

そうですよね。聞こえの状態はとてもデリケート。

突発性難聴の方たちから、途中で一度、この本が読めなくなったとも教えてもらいました。複雑な心境になられたのですよね。

麻野:実は私も、読むのにちょっと勇気がいりました。自分が小学生の頃に片耳が聞こえなくなっているので、その当初を思い出して胸がきゅっとなりました。

ご自身の体験と重なる部分には痛みがよみがえりますよね。

麻野:でもこの本を知ったときは、まず「あ、知ってくれているんだ」っていうのが大きかったです。

じつは出版後、「森埜さん突発性難聴なの?わたしも」という声を多くいただきました。

関西の書店員さんが、ご自身も突発性難聴を患ったことを明かしながら、紙面で本をご紹介くださったこともありました。

片耳難聴がこれほど身近であったことを、後になって知ることになりました。

高井:そう、たくさんいるんですよね。
生まれつきの方も1000人に1~2人いるし、その後でムンプス難聴(おたふく風邪のウイルス)や中耳炎などで片耳難聴になる人もいるので、中規模の学校に一人はいるぐらいの割合です。
聞こえない・聞こえるという世界が対立しているのではなくて、片耳難聴も含めて、そこにはグラデーションがあるんですよね。


  • ●突発性難聴:
    突然起こる片耳(まれに両耳)の難聴のうち、原因が不明なものの総称。
    聞こえにくくなる程度は人それぞれで、早期に治療することで回復する場合もあれば、全く聞こえなくなる場合もある。
  • 発症後できるだけ早く(遅くとも1週間以内)の治療が重要といわれている。

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