左耳が低音障害型感音難聴による軽度難聴のYさん。
音大声楽専攻卒業後、現在はオペラ歌手を目指して研修所に在籍しています。
今回は、Yさんが音楽をする中で感じた「聞こえづらい」だけではない、低音障害型難聴の聞こえや、発症後からの周りの人との関わりについてお話を伺いました。
インタビューの聞き手は、自身も片耳難聴のピアニストで、きこいろでは音楽担当をしている辻さんです。
目次
- 10歳から声楽を始めて、オペラへ
「芝居がやれて、歌も活かせる、オペラはちょうどいい」 - 左耳が聞こえにくくなって
「歌声に4度下で機械音のような音色が重なった」 - 発症後からの周りの人との関わり
「難聴に関してオープンに、優しい世界になって欲しい」
お話を伺った方のプロフィール
- 名前:Yさん(仮名)
- 年代/性別:30代/女性
- 所属:オペラ研修所 研修生
- 聴力の程度:
左耳は低音域が軽度難聴
右耳は聴力正常 - 原因/時期:不明/研修所在籍中
- 治療:投薬による治療
- 補聴機器の使用:なし
- その他の症状:耳鳴り、聴覚過敏
- 自己開示の有無:無しからオープンに
- 自身の受け止め:想像以上に大変だった

1. 10歳から声楽を始めて、オペラへ
「芝居がやれて、歌も活かせる、オペラはちょうどいい」
Yさんは声楽をされています。声楽を始めてどれくらいになるんですか?
声楽を習い始めたのは小学4年生の時です。それまでは、ピアノの先生をしている母の影響もあって、ピアノやバイオリンを習っていました。
声楽に惹かれたきっかけは何でしたか?
「アヒル型のキックボードに乗りたい!」です。子供のためのオペラ《魔笛》の小道具なんですけど。それを持ってたお姉さんから「オペラに出れば乗れるよ」って言われて。
それでオペラのオーディションを受けて。でも受かったのは良いけど、私の世代は演目が《ヘンゼルとグレーテル》に変わって、結局乗れなかった…(笑)
大学院を修了後、現在はオペラ研修所に通われているんですよね。
オペラ研修所に通おうと思ったきっかけは色々です。在学中に受けていたオペラコースも楽しかったですし、始めたきっかけの「アヒル型のキックボードに乗りたい!」という思いもまだありますし。楽しかった芝居がやれて、歌も活かせる、オペラはちょうどいいかなと思いました。
2. 左耳が聞こえにくくなって
「歌声に4度下で機械音のような音色が重なった」
オペラ研修所に通うようになってから「急性低音障害型感音難聴1」と診断されたとのことでした。難聴が分かったときの状況をお聞かせください。
自覚を持ったのは、去年の夏《魔笛》のコンサートの日でした。急に、休憩の時間に人の声が超雑音な感じで頭にガンガンきて、気分が悪くなって…。暑い日に起こった事だったから、脱水症状だと思って様子を見ていたけど、翌週に難聴だと診断を受けました。
難聴って、今まで聞こえないだけだと思ってたんです。だけど、自分がこうして難聴になってみて、「聴覚過敏」というのかな、聞こえないけど聞こえ過ぎるのも難聴の症状の一つなんだなってのを学びました。
聴覚の過敏さは難聴に伴う症状の一つですね。
他にも、めまいがあって。毎日、コーヒーカップに乗った後の、あのぐるぐる感が続きました。私、コーヒーカップは好きですけど、さすがにちょっと胸焼けがするって言うか(笑)
バイクや地響きに似た、「ブォーン」という中低音の耳鳴りもあります。歌った後、特に研修所の稽古が終わってからの耳鳴りが凄くて。帰りの駅でしゃがんじゃうくらい。稽古の当日とその翌日は耳鳴りがうるさすぎて、疲れてるのに寝れませんでした。
それはお辛かったですね。発症直後でも、稽古は休まずに通っていたということでしょうか。
通院治療を続けながら、休まずに通っていました。研修所に入る直前に、怪我をして動けない時期があった反動で、どうしても休みたくなくて。
どんな治療を受けましたか?
色んな薬を飲みました。特にイソバイドという薬は関ヶ原合戦級の不味さ(笑)で、私の人生の中で一番記憶に残る薬になりました。
他には聴覚過敏が酷かったので、その対策として「耳栓をしなさい」と言われました。特に、雑音の多い電車やバス、研修所の稽古の時に付けていました。私が買った耳栓は市販のもので遮音性能は高くなかったのですが。それでも発症してから最初の2ヶ月は、耳栓なしじゃ生きていけないくらい聴覚過敏がつらかったですね。
音楽をやるときに大変だったことはありますか?
難聴の左耳は、低音部だけ聞こえにくくなったのですが全く聞こえないわけではないので、歌うと4度2 下で機械音のような音色が聞こえちゃって。ドを歌うと耳の中で下のソがハモって、それがアンサンブル(複数人での演奏)の時に、凄いハーモニーを奏でました。3度だとまだ気持ちいい。5度、6度もまだ許せるんだよ、私。
4度かぁ…って思って。
音楽家ならではの感性ですね…
普段の話し声を聞いてるときも、ピッチ(音高)の変化と聴覚過敏が相まってグワングワン響くようになっちゃって、何が何だか分からなくて。特に、大人数での会話が出来なくなって。聞こえるんだけど聞き取れない、言葉としてちゃんと理解しにくくなって。メンタルをやられました。段々心が閉ざされていって。
そのことは発声に影響しましたか?
その頃は発声どころじゃありませんでした。とりあえず正しい音を歌って一生懸命動くのに精一杯だったかな。
- 1 突発性の耳閉塞感や耳鳴りなどを伴う、低音域に限定された「感音難聴」。多くが片側のみ。繰り返し起こることがある。軽いめまいを伴うこともあり、メニエール病に移行する例もある。
- 2 2つの離れた音の隔たり。同じ高さを1度とし、隔たりを度数で表す。
- (例:ド−ドは1度、ド−レは2度…というように数える)

3. 発症後からの周りの人との関わり
「難聴に関してオープンに、優しい世界になって欲しい」
周りの方には難聴のことをお伝えしていますか?
家族には伝えました。私の家は、オペラみたいに悲劇的になることもなく、自然に配慮をしてくれましたね。聴覚過敏があるので、私がいるときはピアノを弾かないとか、テレビを付けないとか。私の祖母と母親も難聴だったから、理解があったのかもしれません。
その他の方には、はじめは隠し通そうと思っていました。難聴について悪口を言う人がいないと分かってはいるけど、片方は聞こえてるし、「普通」に生活したいという思いがありました。会う人一人一人に対して、難聴の自己申告をするのもめんどくさかったですし。でも、しゃべるのは辛いし…と、発症直後は凄く悩みました。
難聴になる前に骨挫傷やって、車椅子に乗ったり、松葉杖ついたりしていたんです。その時は体に目に見えて着けていた装備があったから、何も言わなくてもみんなが協力してくれました。難聴の場合は、耳にギプスをするわけでもないし。周りから見えにくいという、難聴の難しさを感じました。
今では、難聴のことをオープンにしているんですよね。
一度だけ、難聴を隠したまま稽古に臨んだのですが、とても稽古ができる状態じゃないと気付きました。歌科だから人はいっぱいしゃべるわ、爆音で歌うわ、先生も爆音でしゃべるわみたいな、それが3時間続く環境で。
稽古が終わった後、立っていられないくらい消耗しました。そのとき、たまたまインスペクター(演奏以外に関するまとめ役)の方がいて「大丈夫?」と声をかけてもらえたことが、「実は難聴で」とカミングアウトするきっかけになりました。「それは先生に言って共有してもらった方が良い」って言われたから、先生に伝える決心がつきました。それがなかったら、もしかしたら今でも隠し通そうとしていたかもしれません。
主任の先生に伝えたら、「自分の門下生にも難聴の方がいて、そういうの分かるから、無理しないで遠慮無く言って」と言葉をかけてもらいました。全体にも共有してくれて、講師の先生方からは環境が少しでも良くなるように動いていただけました。例えば、伴奏の音量が辛くないか毎回確認し、辛かったら下げてもらえたり、静かな場所でお話してもらえたりしました。
周りの方の理解があったのですね。
難聴のことや耳栓をして稽古に臨む事を、同期もわりとすんなり受け入れてくれました。同時期に、メニエール病というめまいを伴う難聴の病気を発症した子もいて、逆に相談に乗ったりしました。
振り返ると、カミングアウトした方が相当楽でした。そこから色々話も膨らむし、いろんな事を知る事もできたし。
話してみると、周りにも片耳難聴のある方がいるものです。私も経験があります。
声楽を習っている先生も難聴だった期間があったとお聞きしました。テノールが耳元で、爆音で歌ったら一時的に難聴になったらしくて。
声楽家は凄い音量になりますよね。
それで難聴になってって、危険ですよね。私も、相手が耳元に来る演技の時は注意します。
先生も難聴経験者だったから、大さわぎな感じになることもなく。家族もそうだし、私の周りは割と難聴やってる人が多かったから、理解っていう点では恵まれていました。
きっとみんな、なにかしら隠して生きていると思うけど、難聴に関してはほんとオープンに、優しい世界になって欲しいなと私は思います。
